農村力(のうそんりょく)エネルギー。
岩手県北の葛巻町に、再生可能エネルギーを取材(風力発電、他いろいろ。for 季刊[住む。])したのは、何もかも凍りついていた2月。5カ月近く経った青葉のいまからすれば、あの極寒が遠く思える。まあ、また半年経てば寒さに震えるようになるのだが。
風力発電で全町の需要の1.6倍を発電する葛巻町の第三セクターも、運営は厳しさを増しているとの報があった。カギは、やはり送電網の開放。
福島県沖にはでっかいウィンドファームができるみたいだし、一関に太陽光発電施設が登場するらしいし、エネルギーシフトの布石はやれかれしている間に動いている。ただ思うに、「再生可能エネルギーだから、クリーンなエネルギーだったらいくらでも使っていいよね、ばんばん成長しましょ」という考えをもっている人がいるなら、それはお門違いだろう。電力事業がちょっとやそっとじゃ進路変更できないくらいに巨大化した、そのロードマップから離れていない。
電化製品やクルマの技術進歩は、当然だけど「省」の方角へ歩んできた。比較データは持っていないけど、ひと昔前の冷蔵庫に比べれば現在の冷蔵庫は数十%くらい小さな電力で同じように冷やせるようだ。それはそれで良しとして、節約できるはずのエネルギーで「2倍生産しました」とか「電化製品AとBを買いましょ使いましょ」というのは、明らかに省エネではない。
再生可能エネルギーの意義については、「石油やウラニウムなどの地下資源を、エネルギーを得るために燃やす直接利用法は避けよう」という辺りだと思っている。仮にエネルギーを得るための利用が直ちにゼロにできたとしても、石油は特にあまりにも多くの資材に使われていて、頼らないわけにはいかない。よく言われる「持続可能な社会」の究極的なモデルを想像するならば、それは風や太陽光や地中熱、海水など無尽蔵のエネルギー源と、農林業の植物に由来する素材だけでつくった社会。ということができるのではないか。つまり太陽光パネルも発電の風車も、木材や植物繊維を使ったスーパーテクノロジーによる素材で作ってこそ、地中資源から離れることができる。途方もないことだし、そのためには技術革新が100コも1000コも必要かもしれないけど。
当面の話として、その①。少なくとも家のまわりが田であり畑であり、川があり森林があり、という環境ならば(つまり農村ならば)、遠くに頼らずともエネルギー源はある。ハードルはそんなに高くないと感じた。集落や地区ごとの小水力発電プラス屋根の太陽光利用で、相当な電源は得られる。 [季刊地域]が農村力エネルギーと名付けているそうした電力源を、発電組合のような形でどんどん実践していくといいのに。もちろん、エリアは小さくとも送電網が利用できなければ話にならない。
当面の話として、その②。何でもかんでも電気のチカラで明るく、自動で、速くすることもない。むしろしない方が、正しく人の手を煩わせた方が、楽しく確かな暮らしごこちを感じられるケースはずいぶんたくさんあると考えたい。たとえば電磁調理器では難しい、火を使ってこそ好み次第に調節できるコゲ目のおいしさとかね(もちろん、火を出さないメリットも歴然とあるし、そのことは誰よりも知っているつもりだ。酸素吸入チューブをつないで屋内を歩いていた生前の姉は、当然ながらガスコンロに近づけなかった。自分で好きなものを料理し食べるという当たり前の暮らしをひとつ取り戻せたのは、紛れもなく父母が大枚はたいて買った電磁調理器のおかげだ。ちなみに購入を相談された時に僕は必要ないと反対した。が、「料理なんかしなくたっていい」とは健常者の横柄であり言えなかったが)
電気を使わなくて済む、あえて使わなくても楽しい暮らしはそのままでいい。そんなことを実践しているのが、同じ折に取材した葛巻町の「森と風のがっこう」であった。そこに流れている水、その土地の広がりに降り注ぐ光、それらで生えてくる木々や、生活者の排泄物さえエネルギー源にする暮らし方。望ましいのは完全自給であるけれど、足りない必要分のエネルギーのみ外へ補助的に頼る。それで満たされる暮らし方の方がエレガントだと思うのだが。
緑の中で、「森風」ではカフェがオープンしているはず。足を運びたいと思っていたのに行けてない自分にしくしくしている。
風力発電で全町の需要の1.6倍を発電する葛巻町の第三セクターも、運営は厳しさを増しているとの報があった。カギは、やはり送電網の開放。
福島県沖にはでっかいウィンドファームができるみたいだし、一関に太陽光発電施設が登場するらしいし、エネルギーシフトの布石はやれかれしている間に動いている。ただ思うに、「再生可能エネルギーだから、クリーンなエネルギーだったらいくらでも使っていいよね、ばんばん成長しましょ」という考えをもっている人がいるなら、それはお門違いだろう。電力事業がちょっとやそっとじゃ進路変更できないくらいに巨大化した、そのロードマップから離れていない。
電化製品やクルマの技術進歩は、当然だけど「省」の方角へ歩んできた。比較データは持っていないけど、ひと昔前の冷蔵庫に比べれば現在の冷蔵庫は数十%くらい小さな電力で同じように冷やせるようだ。それはそれで良しとして、節約できるはずのエネルギーで「2倍生産しました」とか「電化製品AとBを買いましょ使いましょ」というのは、明らかに省エネではない。
再生可能エネルギーの意義については、「石油やウラニウムなどの地下資源を、エネルギーを得るために燃やす直接利用法は避けよう」という辺りだと思っている。仮にエネルギーを得るための利用が直ちにゼロにできたとしても、石油は特にあまりにも多くの資材に使われていて、頼らないわけにはいかない。よく言われる「持続可能な社会」の究極的なモデルを想像するならば、それは風や太陽光や地中熱、海水など無尽蔵のエネルギー源と、農林業の植物に由来する素材だけでつくった社会。ということができるのではないか。つまり太陽光パネルも発電の風車も、木材や植物繊維を使ったスーパーテクノロジーによる素材で作ってこそ、地中資源から離れることができる。途方もないことだし、そのためには技術革新が100コも1000コも必要かもしれないけど。
当面の話として、その①。少なくとも家のまわりが田であり畑であり、川があり森林があり、という環境ならば(つまり農村ならば)、遠くに頼らずともエネルギー源はある。ハードルはそんなに高くないと感じた。集落や地区ごとの小水力発電プラス屋根の太陽光利用で、相当な電源は得られる。 [季刊地域]が農村力エネルギーと名付けているそうした電力源を、発電組合のような形でどんどん実践していくといいのに。もちろん、エリアは小さくとも送電網が利用できなければ話にならない。
当面の話として、その②。何でもかんでも電気のチカラで明るく、自動で、速くすることもない。むしろしない方が、正しく人の手を煩わせた方が、楽しく確かな暮らしごこちを感じられるケースはずいぶんたくさんあると考えたい。たとえば電磁調理器では難しい、火を使ってこそ好み次第に調節できるコゲ目のおいしさとかね(もちろん、火を出さないメリットも歴然とあるし、そのことは誰よりも知っているつもりだ。酸素吸入チューブをつないで屋内を歩いていた生前の姉は、当然ながらガスコンロに近づけなかった。自分で好きなものを料理し食べるという当たり前の暮らしをひとつ取り戻せたのは、紛れもなく父母が大枚はたいて買った電磁調理器のおかげだ。ちなみに購入を相談された時に僕は必要ないと反対した。が、「料理なんかしなくたっていい」とは健常者の横柄であり言えなかったが)
電気を使わなくて済む、あえて使わなくても楽しい暮らしはそのままでいい。そんなことを実践しているのが、同じ折に取材した葛巻町の「森と風のがっこう」であった。そこに流れている水、その土地の広がりに降り注ぐ光、それらで生えてくる木々や、生活者の排泄物さえエネルギー源にする暮らし方。望ましいのは完全自給であるけれど、足りない必要分のエネルギーのみ外へ補助的に頼る。それで満たされる暮らし方の方がエレガントだと思うのだが。
緑の中で、「森風」ではカフェがオープンしているはず。足を運びたいと思っていたのに行けてない自分にしくしくしている。
by kawa-usso
| 2012-06-22 18:02
| 雑感、いろいろ。